生命、物、言語、哲学について。

メモ。

美となにもないもの。

あるいは美とシンプルな生、

あるいは、美と過剰なもの。

美において、過剰なものをのせて失敗する。美は軽やかに、あなたをうけとめないでいる。そんなことって、あったでしょ? みたいな歌声

美とはそれでいて生命を司る、

生命体であること。

生命をめぐる対話。

美が真理の配達人であり、郵便局でもあるという時、美しい人はメディア的なんだなぁ。媒体的です。という、こと。真理の支配人が雑多なものでありながら、やはり美であると。

それが、現代。

しかしながら、

美、そして、憧れ、が、

詩人において

期せられた、

あるもので。

美学的陶酔を、読書の仕方にあてると、いいのかもね。酔えるか、どうか。

恍惚とした読書という症例ではない、純粋。

文字によって、美学的に陶酔できれば、いいんだよねぇ。

快楽主義のある状態を文明的なストックにつっこんだら、生命がでてきた。

みたいな本性をあびたら、いいのではないでしょうか?

古典を快楽主義でふるわせる。

女の子が距離をきたした。

 有のありか

 無のありか

 男女と永遠

 

 みたいなもさもさが

 10代の雲

 かくす、ほかのことばで、

 言い換えてきたれきし

 善によりシンプルさが成立しているのが、美である。

 どうやら、猫ちゃんにも、美意識があるようだぞ。

 綺麗な洋式のお皿に入れると、

 食べるのに、

 お弁当のフタみたいなのに、入れてみたら、

  食べなかったり。

 ひたすら、綺麗なお皿の方に、横にあるフードを無視して、

  口で、こだわる。

 綺麗なお皿に入れると、やたら、せがむので、

 ダイエットの時には、さほど、そうでもない入れ物がおすすめ。

 食欲を削ぐよ。笑。(猫の場合です。)

 

 バーレスク東京、すげえな。

 なんかの交流にいいのかな。

 行ったことはないけれども、バブル時代さながらで、いいね。

 

 今、勝手に、思いついたけど、デートワンダーランドとしての東京を徹底的に、撮影する妄想デート篇みたいなのは、なんだろう。やっぱり憧れとしてあるよねぇ。変な感じだけれども、男の子だし、的な所は、やっぱり、あるなぁ。女の子も、もしかしたら、そういったデート篇の夢とか、あるかもね。

 

 新しい都市を勝手につくろう、とか、いう命題が浮かんできて、

 やっぱり、ユートピアとか、想像にせよ、

 想像線にせよ、

 描くと、いいよね。

 理想の世界をね。

 でも、基本的に理想郷って、人にあるんだよね。

 その届かない部分を、都市づくりでは、

  

  かわりに作り上げてゆく、みたいなね。

  

  美は、基準になるかも、だね。

 とりあえず、作ってみて、

 それから、で、いいじゃん、みたいな感じで、

 都市を勝手に作っていく。

 そんな想像から、本当に創造するのって、

  ありだよね。

 理想郷。 

聖なる状態をつくりだしている

環境的なものが、

デザインとして、

 とか、

 催し物にしても、

 

  いいものを出せるように、

   とか、ね。

 失敗しても、いいんだよねぇ。

 ガンガン描いて、

  みんなぶっとび(八十年代?)になるくらいの

  凄いものを、

  作れたら、いいんだよね。

 失敗しても、怖くねぇなぁ。

 もともと、戦後、何もなかったんだし、(吉本隆明的な感じで、)

 もともと、デモとか、しながら、人類学者からもらった太鼓を叩いて、

 都市を変えたりしていたからねぇ。

 あの時、失うものはなかったねぇ。

 むしろ、何もなかったし。

 まぁ、なんだろう。

 黒田オサムさんみたいに、

  生きて、芸術になる人みたいな老成の仕方もあるけれども、

 何をやらかすかわからない、

 

 くらいの面白さが、いいかも知れない。

 あがく時には、あがくし、

 自由をなくせば、叫べば、いいし、

 お金社会まっぴらだ、資本主義くたばってしまえ、の時には、

 とことん、そっちに、コミットすればいいんだよ。

 政権交代だ、とか、言ってね。

 失敗しても、いいの。

 信じて、やるのが、いいんだよ。

 でも、チャレンジしてる人って、美しいね。

 オーディションとか、受けて、やっぱり落ちた、みたいなさ。

 プロとして、通用するか、どうか、みたいなチャレンジだけれども、

 資本主義とか、

 そういった区別なしに、さ、

 上を目指すのっていいねぇ。

 ひたすら、もの、物、モノについて、ストイックに語る詩人がいても、いいかも知れない。

 ピエール・アレシンスキー、いいですね。

 昔の美術とか、やっぱり、好きだなぁ。

現代物、近代物、もちろん、いいんだけれども、

ちょっと、前の時代の美術作品とか、いいよね。

画家の有元利夫は、バロック音楽とか、かけて、

古びた感じを、

表現として、

やろうとしたりしていたけれども、やっていたけれども、

古いものに対する憧れ、というのかな。

 ロマンはあるよねぇ。

 古代ギリシャ展で、古代ギリシャの壺絵とか、

 コスモロジー

 とか、見れたけれども、

 古代人の描くものに触れられる機会なんて、

 国立クラスの美術館ならではだねぇ。

 アクティヴィストの方に

たまたま公園歩いていたら、遭遇して、立ち話しました。

おばちゃん、また元気になっていて、

相変わらず、激突も辞さない、活動家らしい、話ぶりで、

 すごい、正義感あって、よかったです。

 結果的に、新しい言語学になっていって、私はやはり、言語学になっていくのだな、と、思いました。結局、そこになっていきます。高濱忠彦先生のようになってきている。言語の体系である、と、ね。

 あと、節約したい時とか、お財布に、お金を入れない、とか、いろいろあると思うんだけれども、シュタイナーを想いながら、暮らすと、節約できたりしますね。

 シュタイナー想いながら、絵を描いたり、とか、いろいろしたいなぁ。

 人生における学習、内省、感情の浄化といった力の場合は、人生の中で多様な仕方で交替するが、宗教は思考、感情、意志の全てに統一した性格を与え、魂の全ての営みを同じ統一した光で照らし出す。(ルドルフ・シュタイナー

 霊的にきれいな世界、うつくしい霊的な世界があることを、おしえてくれる「天国」という思想があったとしたら、私は、地上の楽園よりも、天の御国をえらぶ、といううつくしい現世での生き方もあるわけです。

 エーコ言語学の本、面白いなぁ。高濱忠彦先生が、教えてくださった、いや、よく語っていた、ライプニッツの普遍言語、それら、いわゆる、普遍言語についての考察で、エーコが挑んだものを読んでいます。

 歌うルソーみたいな文体は可能だろうか?森の中で言語の起源を歌うように。

 互盛央さんを読んでいても感じた、言語についての本を、読んでいる感触が、

 エーコ言語学の本からも感じる。

 ルソーは、もともと歌っている。

 しかし、言語の起源のために、ルソーの文体で歌うことは、

 現代の中で、

 またちがったルソーを生み出すのだ。

 言語の謎、とか、言語についてのミステリーを解いていくこと。言語学の本がおもしろいのは、その小説の感覚ではないか。

 

 言語に明確な起源など、確定出来るわけでもなく、

 大地と空、生命が生まれた過程で確定された物語の中で、対象に対する確定的な認知になるまでを、言語としたら、確定はされるだろうなぁ、

 フィーリングで書くとそうなるね。

 

 脳の発達と、物の認知のプロセスを研究すれば、

 自分、を、認知できて、それを文にしたのが認識だとすれば、

 言語の起源はあいまいである。

 しかしながら、

 私を認知して、

 対象を確実に指定して名づけ始めたのは、神話的であった、と、言える。

 これといった起源なきことが、起源として成立している、ルソーにならって言えば、自然史的なものであった、と。(自然が言語に先立つ。これは言語の起源があいまいにしか、言えない、あるものであると。)

 ルソーが自然史といった言葉をつかったかどうかはさておき、自然状態という言葉は確かに使ったとしても。言語の起源があいまいで、とらえどころのない、多数のからみあった存在である所の一が、あえて言えば、確定的な言語の起源で、脳に、つまりは進化に関係していると。

 この宇宙と言語のやさしさについて、谷川俊太郎のように、うたう事も出来るだろう。

 言語の起源を科学で追いかけてもなお、愛の生命力は、それを追い越してしまっているから、うたは、うたで、ありつづけてしかる。

 言語の起源は、こうである、と参戦した時の、この人は外れている、という疎外をうけることも、歌う勇気の調べかな。

 真理に向かって、絶唱することが、起源が単一であり、美であり、善だから。言語は一つの完全であった。イデア界の言語は、この世界にはない。

 哲学にとって言語とはなにか?

 哲学は言語の支配にあるか。

 哲学は言語によって支配された思惟の体系であるか?言語の外に哲学はあるのか?

 言語的存在が哲学であるとしたら、

 哲学は言語によって支配されたものだとしたら、基本的には。見えない、すくえない、非言語の論理を結果、さだかならぬ、あいまいな言語の起源ににがす。

 新哲学が、起源を設定し直す事で、できる組み換えを、現代詩にしたら?まで、降りてきて、星の律。

 確定的な真の過剰さにみちた神意ともとれる文が、意識をうみだし、措定する。

 形而上なものという過剰な私という存在を巡って。

 

 新意識-私ということを意識できること。-言語化

 哲学はかくして、

 言語に降りた。